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私の見た、観じた、理解した日本 -日本人の実証主義について-

 私は去年の4月初旬、岡山にキャンパスアジアの参加者として来た。日本に来たばかりなので、すべてが新しく、なれなかった。私の専攻に関する授業は一つだけあって、当然な話であるが、わくわくとしながら授業を受けに行った。

 当時、その授業のカリキュラムは日本の児童文学に関する本をまとめることや自分の研究テーマについて発表することであった。もちろん、外国人としての私は日本人が小学生の時に学んだ教科書は知るはずがなかった。しかも、今もそうだと思われているが、当時の私は日本語の作文・会話などが全部上手ではなかったのである。私にとって日本語のテクストは恐怖であったと言ってもよいだろう。韓国語とは違って、日本語のテクストは分かち書きもなく、漢字ばかりのものであり、難しい読み物として感じられた。現代の日本語はもちろん、明治期・大正期の日本語はいわゆる「謎」であった。読みにかかる時間も短くなかったので、他受講生に比べて、読めるテクストの範囲も狭くなるしかなかった。しかし、先生は日本語のテクスト(特に、対象になる原文)をちゃんと読ませるようにアドバイスしてくれた。自分の研究テーマについて初めて発表したとき、繰り返して、先生は資料を中心に置いてちゃんと読まないといけないと強くおっしゃった。自分が主張したいテーマがあったら、関連資料をひとまず取って読むのは基本的である。それは韓国にいったときから、ずっと知ってはいたことであった。とはいえ、このように重要に思われているのは「夢にも思わない」ことであった。後期の授業はより大変であった。明治期の詩人と画家の間に取り交わした書簡文を解いて読む授業であったのに、漢字もまだ完全に慣れていない私にとってはそれこそ「一難去ってまた一難」であった。時間が経てば経つほど、私は顧みようとなった。「私は自分の日本語の実力のせいだと思ってきたのではないか?」と。そうして私はとっくりと考えてみた上、次にように結論を導いてみた。

 私の意見では、資料を扱い方にとって日本人たちは何でもゆっくり、詳しく、十分に気を付けると思われる。このような姿はたまに「こだわり」と見える。ところが、他方、過ぎると思われる。

 とりわけ、よかったと思ったところについてである。私はせっかちな人であり、資料を読んでも重要な部分を見落として読んでしまうことが時々ある。注意してもいつもどじをしでかしてしまうのである。そのためであるか、私にとって日本人特徴が気になる。日本人は自分が考えていることや意見があったとしても、あまり口にしないと思う。細かいこととしても、慎重にしようとする。これを私は「実証主義」と名づけたいと思う。「実証主義」とは、「感覚的な経験によって与えられる事実だけから出発し、それらの間の恒常的な関係・法則性を明らかにする厳密な記述を目的とし、一切の超越的・形以上学的思弁を排する立場」1である。ここで言われている「感覚的な経験」とは人間の五感、すなわち視覚・聴覚などをはじめにする身体を通じて得られる経験にほかならない。私は、実は、間違いないようにはっきりしようとする彼らの態度に感動を受けた。原文を直接に確認せずに勝手に引用したら、絶対に認められないのである。韓国もそうしているが、日本より厳しくないと思われる。

 ところが、たまに一寸残念というか、直して行くべきだと思っているところもある。文学というのはいつも変化しつつある。目の前に置いている個々の文学作品も重要な意味を持っているが、文学が変わって行く様相を検討することも重要である。日本の大学院・文学界が全部そうではないと思われるが、私がここで感じたのは個々の作品しか読んでいなく、文学史に対する批判的な考察もまれにしているのである。

 日本に来た以降、日本の近代文学について勉強してみるいい経験をした。いや、実際には文学の研究方法について勉強したと思う。 韓国に帰って行っても、この態度が忘れられないようにしようと思っている。今からは韓国に帰って韓国と日本の研究方法を比較しながら勉強したい。

 

 

 

 

1 『広辞苑』第6版、岩波書店、2008、1253ページの「実証主義」の項目を参考。哲学上、同一のことを求める傾向を示して「実証主義」と呼ぶ。あるいは、18世紀末のフランス哲学者のオーギュスト・コントによって強調された傾向。

 

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